古文書医学書●明治5年 朋氏外科手術篇 2冊 90+70丁 東京医学病院 原祐民温先生保管 小売 230507

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松本良順が筆記したものの写本だと思います。
朋氏とはお雇い外国人医師の当て字だと思いますが誰であるかは調査中です。
多くの方にご覧になって戴き貴重な資料がご研究のお役に立てれば大変嬉しいです。
サイズは17.8×24.4×2冊で2.8㎝です。写真にあるスケールは全長17㎝です。状態は経年によるシミヤケがあります。発送は追跡可能なクリックポストを予定しています。
松本 良順(まつもと りょうじゅん、1832年7月13日(天保3年6月16日)- 1907年(明治40年)3月12日)は、江戸時代末期(幕末)から明治期の日本の医師(御典医、軍医)、政治家。爵位は男爵。西洋医学所頭取、将軍侍医、幕府陸軍軍医、大日本帝国陸軍軍医総監(初代)、貴族院貴族院勅選議員などを務めた。父は佐倉藩藩医で順天堂を営む佐藤泰然。外務大臣の林董は実弟。幼名は佐藤順之助。後に幕医の松本良甫の養子となる。明治4年(1871年)に従五位に叙せられた後、順(じゅん)に改名した。号は蘭疇、楽痴。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、歩兵頭格医師として幕府陸軍の軍医、次いで奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津戦争後、仙台にて降伏した。戦後一時投獄されるが、明治2年1869年赦免され、出獄後に東京の早稲田に西洋式病院の蘭疇院設立[1]。山縣有朋などの薦めで明治4年(1871年)に兵部省に出仕。明治6年(1873年)大日本帝国陸軍初代軍医総監となる。明治23年(1890年)9月29日、貴族院議員に勅選される[2]。明治35年(1902年)4月1日に退役した[3]。明治38年(1905年)3月2日、男爵の爵位を受ける。出典:ウィキペディア東京医学交は、文久1年1月(1861年11月)に設立された幕府直轄の西洋医学校「医学所」は、慶応4年4月(1868年5月)、明治新政府に接収されて6月26日(新暦8月14日)には「医学校」と改称され、翌明治2年(1869年)1月にはイギリス公使館付医師のW・ウィリスを教師として授業を開始した。この医学校は翌2月には官立の「大病院」と統合されて「医学校兼病院」となるが、同年7月18日(新暦8月15日)の大学校設立に際し、開成学校(旧幕府の開成所の後身)とともにその管轄下に入り、大学校「分局」とされた。明治2年12月17日(1870年1月18日)、大学校の「大学」改称にともない医学校は「大学東校」と改称されたが、翌3年7月12日(1870年8月8日)、内紛により大学本校が閉鎖され「大学」自体が有名無実化すると大学東校は独立、同年閏10月に学校規則が制定され予科・本科の組織が確立された。翌明治4年7月18日(1871年9月2日)、大学の正式廃止と文部省発足にともない、7月21日(新暦9月5日)に「東校」と改称された。この時期は「医学校」設立当初のイギリス医学中心の教育からドイツ医学へと移り変わる時期に当たり(後出)、同年9月25日(新暦11月7日)、政府は東校をいったん閉鎖して規則を改正した上で翌10月に再開、こののちドイツの医科大学をモデルとした組織改革が進んだ。出典:ウィキペディア

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